きりまんじゃーろでうありむ。

2018年1月〜2020年1月、青年海外協力隊でタンザニアへ。キリマンジャロ山の麓街であるモシ市で、小学校の先生として派遣されます。

目には目を、歯には歯を。

タンザニアの学校では前期が終了し、国家試験のある学年を除いて長期休みに入りました。(と、思われます。)

 

今回はいじめについてです。

(そういえば、いじめは先進国の方が多いのかな?どうなんだろう?データがあったとしても信憑性に欠けるような気がします。→途上国のデータがね。)

 

ここでのいじめは、

日本のように長く続くものは、

すくないかもしれません。

どちらかというと突発的なもの。

急に仲間はずれにしたり、

何かの拍子に集団で殴ったり蹴ったり。

今回は後者の例でした。

 

 

先日、ある子どもの母親が鬼の形相で学校に訪れてきました。

「息子が複数人に殴られた。」、と。

 

目には目を、歯には歯を。

有名なハンブラビ法典ですね。

償いには同じことをしなさい。

償いには対価を払わせ、

それ以上はしてはいけない。

という、内容だったでしょうか?

 

日本で言い換えれば、

「自分がやられて嫌なことは、してはいけません。」ですかね。

これと同様の効果がありそうですね。

 

ここタンザニアでは、

罪以上のことを払わせるようです。

それこそ、目をつぶりたくなるほどに

 

複数の教師が順々に母親とその子どもの目の前で執拗にチャパをします。

 

当然、子どもたちは泣き叫びます。

まさに悲鳴です。

僕が「イナトシャ!(十分だよ。)」

と言っても、構わず続けてました。

 

一通りの罰が終わると、

「彼らは悪いことをした。が必要だ。これくらい痛みを与えれば、もう絶対にしない。」と、副校長。

 

すかさず「彼らがまたしてしまったら?」と聞いてみます。

すると、「またチャパすればいい。

 

イタチごっこやん。

 

 

「日本でもこれくらいの罰があれば

犯罪やいじめの抑制になるはずだ!」

こう思った人もきっといますよね?

 

どうでしょうか。答えはわかりません。

だから犯罪もいじめも絶えません。

ただ、もしそんな世界になったら

極刑、即ち死刑以上の刑が必要です。

死刑以上の刑。一体なんでしょう?

ファラリスの雄牛とかでしょうか。

ただそれでは、我々は退化してしまう。

また歴史を繰り返してしまう。

 

 

自分が嫌なことは相手にしない。

という概念を植え付けるか

 

針千本を飲ませて調教するか。

 

はたまた第3の方法を生み出すのか。

 

日本だったらきっと、学級の問題として取り上げられるでしょう。

個人の問題として、ではなく

一つの集団として友達として

みんなで協力して解決しよう!

素晴らしいことです!!

さすが我が国日本です。

 

 

なんて、僕は一概に言えません。

別々の価値観を持つことを許された

この世の中で、その話合いを誰が取りまとめるのでしょうか?

誰が結論を出すのでしょうか?

結論は出さず、考えることが大切ですか?それで十分なのですか?

それをして誰かが満足するのですか?

 

 

それとも、全責任を教師に委ねますか?

教師ってそんなに万能ですか?

 

 

教師を貶しているわけではありません。

むしろかばっているのです。

大人にだって、教師にだって

 

誰にとっても難しい話です。

誰かが責任を取ってやめ、

何も解決せずに終えようとする、

そんなことに比べたら、

執拗なチャパの方が僕はいいと思う。

ルールがあれば。上限があれば。

感情に左右されなければ。

 

 

ただ、僕が言いたいのは、

仲良しこよしの綺麗事だけではない。

 

みなさんはどう思いますか?

いじめだけではありません。

どうやって正解不正解を教えますか?

間違いを犯した際、

どうやってそれを教えますか?

 

針千本飲ませますか?